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ハンガリーの絵画
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ムンカーチ・ミハーイ
ムンカーチ・ミハーイ
Munkácsy Mihály
(1844-1900)

ハンガリーで最高峰の画家のひとりです。
ドイツのミュンヘンやデュッセルドルフで絵画を学び、パリにたどり着きクールベの影響を受けました。若い初期の作品では、ハンガリーの農民の生活を描写し、いくつかの劇的な作品を創作しました。
1869年に、彼の「死刑囚(しけいしゅう)」は「サロン・ド・パリ」で展示され、金賞を受賞しました。
日常生活を象徴するパン、生計のために無法犯罪者となった者の姿は、未知の国の貧しい人々の残酷な運命に光を当てました。この絵がすぐに販売されたことによって、26歳のムンカーチは突然有名な画家となりました。
1871年にパリに定住し、裕福な家庭の室内情景を主題としました。1874年、フランス人と結婚しました。
1880年から、またハンガリーのテーマが多くなり、たくさんの素晴らしい風景画が生まれました。「プスタの嵐」を見るとイギリスのターナーの影響も感じられます。
彼の傑作と言うと、キリストをテーマにした3部作「ピラトの前のキリスト」(1881年)と「ゴルゴタ」(1884年) と「エッケ・ホモ」(1896年)(ラテン語で:Ecce homo、日本語で:この人を見よ!)が、画家の最も大切な作品と言えるでしょう。これらの3つの大規模な油絵は、アメリカの依頼で作成されました。

死刑囚 (1872年)

プスタの嵐 (1867年)

ピラトの前のキリスト」はまずパリで紹介されましたが、その後、ヨーロッパの諸国で展示されました。ウイーンでフランツ・ヨーゼフは王にふさわしい尊敬の念を持ってムンカーチを歓迎しました。絵はアメリカで展示されてから、ワシントンでクリーブランド大統領も画家を歓迎しました。
この大規模な3部作は長くアメリカでしか楽しむことができなかったのですが、オーナーとの長い話し合いの後、ハンガリー国家が購入し、現在はデブレツェン市の美術館でまとめて展示されています。.
ムンカーチとフランツ・リストの友好関係も当時からよく知られていました。リストはハンガリー狂詩曲第15番と第16番をムンカーチに捧げ、画家は変わりにリストの素晴らしい肖像を描きました。
19世紀末、ヨーロッパの美術界はフランス印象派の全盛期でしたが、ムンカーチは写実主義者として自身の道を進んで、印象主義描写には否定的でした。

ピラトの前のキリスト (1881年)

ゴルゴタ (1884年)

エッケ・ホモ (1896年)

シニェイ・メルシェ・パール
シニェイ・メルシェ・パール
Szinyei Merse Pál
(1845-1920)

五月のピクニック (1873年)

ハンガリー貴族の子孫です。父は、彼の画家になる夢を支持し、母親は文学と音楽のファンであったと言われています。美術をミュンヘンでカール・フォン・ピロティ に学び、早くに独自の絵画を追求し始めました。スイスの画家、アルノルト・ベックリンが友人となり、色の豊かさが非常に重要になったのは彼のおかげだったかもしれません。
青年時代の「恋人たちは、画家が自分の作品の中で一番愛した絵で、晩年に別のバージョンを描きました。
シニェイ・メルシェの傑作は月のピクニック」です。数年間の準備の後、たくさんのスケッチを作ってから、この絵を1873年に創作しました。しかし、ヨーロッパの絵画で非常に重要と言える、華麗で陽気なプレネール (plein air )作品はその当時成功を収めることができませんでした。このため、シニェイ・メルシェは創作力を失い、土地を耕しに自分の村へ戻りました。彼は定期的に絵を描きませんでしたが、その間にもひとつの美しい作品が生まれました。これは妻を描いた「紫のドレスの婦」です。妻の顔の優しい描写に加えて、ドレスの紫色と花の黄色がこの絵の特徴です。画家はこの二つの色を当時代に勉強した色彩理論に基づいて選びました。ドレスに使った絵の具は、新しく発明されたものであり、ルノワールが同年に描いた「パリジェンヌ(青衣の女)」に使用したアニリンブルーの紫バージョンでした。ハンガリーで有名な絵画のポスターの中で、いつも「紫のドレスの婦人」のポスターが一番人気を得ています。

1892年に「ひばり」を描きました。ウィーンで展示されたとき、この絵も激しい批判も受けました。その後、ハンガリーの典型的な風景、例えばひなげしの咲く草地」を描きました。
1896年のハンガリー建国千年祭博覧会の際月のピクニック」は大成功を収めました。シニェイ・メルシェはやっと画家として認められ、また絵画の世界に戻りました。政治的な役割も果たし、国会議員としても選ばれました。1905年から亡くなるまで、ブダペスト美術院の校長として活躍しました。
現代のハンガリー絵画の最初の代表者として、西ヨーロッパ画家達と同時に外気と太陽光の描写の問題を発見し、色の豊かでリアルな風景と肖像画の芸術を作り出しました。

恋人たち (1870年)

紫のドレスの婦人 (1874年)

ひばり(1882年)

ひなげしの咲く草地 (1902年)

チョントヴァーリ・コストカ・ティヴァダル
チョントヴァーリ・コストカ・ティヴァダル
Csontváry Kosztka Tivadar
(1853-1919)

(1907年)

チョントヴァーリは青年時代に全く絵を描かなかったと言われています。美術や絵画に対する興味もあまりなかったようです。薬剤師として働いていた彼は27歳に、「神の声」を聞き、「あなたはラファエロよりも偉大な画家になる」という啓示を受けたようです。その後仕事を辞め、14年に渡ってミュンヘン、カールスルーエ、パリで絵画を学び、画家になる準備に取り掛かりました。経験を積むために地中海諸国(イタリア、シリア、エジプト)を長旅し、41歳で最初の油絵を作りました。
彼の作品の中では、地中海諸国の風景が多いと言われていますが、もちろん、ハンガリー国内の風景(例えば、「ホルトバージの嵐」)も描いています。
表現主義様式の「嘆きの壁」(1904年) 、レバノンの古代遺跡の風景「バールベッ(1906年)や壮大な「杉」(1907年)は彼の最も素晴らしい作品と考えられています。杉は画家の人格と活躍のシンボルと言えるかもしれません。
チョントヴァーリは色と照明の度合いを模索し、独特な戸外制作法が見つかり、これを「サンシャイン絵画」(ハンガリー語で:napút festészet)と呼びました。彼の先見の明のある絵画は、表現主義の熱意、鮮やかな色あい、そしてシンボルを生み出す力を特徴としています。
1916年に、オストリア皇帝カール1世(ハンガリー国王としてカーロイ4世)のブダペストでの戴冠式について絵を書こうと思い、戴冠式を見に行こうとしましたが病気のため行けず、残念ながら作成できませんでした。
当時の人々は彼の芸術を理解せず、誤解や孤独が彼の精神的バランスを混乱させ、彼の創造力はますます弱まりました。1919年に孤独に見捨てられたように、貧困の中で亡くなりました。

ホルトバージの嵐 (1903年)

チョントヴァーリの絵画のほとんどはを失われてしまうところでしたが、首の皮一枚で逃れたようです。相続人たちは彼の絵画の価値を知らなかったため、高品質のキャンバスを運送業者に売ろうとしたところ、若い建築家、ゲルローツィ・ゲデオンによって土壇場でこの貴重な作品は救われました。
彼のいくつかの代表的な作品は1948年にパリで展示されました。ピカソはその際、展示ホールが閉じられてから1時間程チョントヴァーリの絵画を研究し、「私以外に他の画家もいると知らなかった」とコメントしたそうです。
チョントヴァーリの作品はブダペストの国立美術館、ペーチ市のチョントヴァーリ美術館で展示され、強烈な印象を残しています。

嘆きの壁 (1904年)

バールベック (1904年)

タオルミナのギリシャ劇場 (1904~05年)

リップル=ローナイ・ヨージェフ
リップル=ローナイ・ヨージェフ
Rippl-Rónai József
(1861-1927)

ハンガリ西部のカポシュヴァールに生まれ、薬学を学びました。卒業の後、ドイツのミュンヘンで美術を勉強しました。1887年にパリへ引越し、ハンガリー人の画家、ムンカーチ・ミハーイの下で絵画を学びました。1889年、フランスのPont Avenを訪れた際、ホイッスラーから影響を受け、この年は彼の「黒色の時代」の出発点となりました。「白い水玉のドレスの女性」という作品がここで生まれました。その後、彫刻家のマイヨールと会い、ナビ派(Les Nabis)のメンバーに加わりました。

白い水玉のドレスの女性 (1889年)

鳥籠を持つ女性 (1892年)

1892年に、彼の傑作と言える「鳥籠を持つ女性」を描きました。この絵は怪しくミステリックな雰囲気を持ち、現在も高く評価されています。色彩はパリのオルセー美術館で展示されている「真夜中の公園」と同じ感じです。この年、パリで彼の展示会は大きな成功を収めました。彼のハンガリーでの紹介は3年後、1895年に行われました。その後、社会のエリートに属する領主や政治家から多くの依頼を受けました。アンドラーシ・ティワダル伯爵(ハンガリー元首相の長男)は、宮殿にアールヌーヴォー様式のダイニングルームや磁器を設計するようにオーダーし、この注文に基づいて立派な作品がたくさん生まれました。この時「リップルローナイのハンガリーでの給料はアンリ・マティスのフランスでの給料と一緒だ」と友達のマイヨールがコメントしたほどです。
1900年にフランス人の奥さんであったラザリンと一緒にハンガリーへ戻り、故郷の町、カポシュヴァールに定住しました。

しかし、フランスで既に高く評価されていた彼の油絵は、ハンガリー地方の保守的な人々によって少し混乱をきたしました。1906年ごろから、彼のスタイルは徐々に変わり、強烈な色彩表現を特徴としだしました。これと共に、点描主義絵画と同様の方法で、点よりわずかに大きなタッチでキャンバスに絵の具を塗ったので、表面はトウモロコシの粒から構成されているかのようになりました。リップル=ローナイはこの描き方をトウモロコシスタイルと名付けました。彼の最も有名な絵のひとつ、赤ワインを飲む私の父とピアチェク伯父さん」はこの時代の出発点と言えます。数年間に渡って、このようなスタイルの作品、「公園にいるラザリンとアネッラ」、「画家とモデル達」やシッファー宮殿のために描かれた大きな油絵もたくさん生まれました。 晩年にはハンガリー文学生活と親しくなり、有名な小説家や詩人の肖像を描いています。

赤ワインを飲む私の父とピアチェク伯父さん (1907年)

公園にいるラザリンとアネッラ (1910年)

画家とモデル達 (1910年)

ハンガリー絵画に興味のある方々へ

上記に紹介した4人の代表的な画家の作品以外にも、たくさんの美しい絵をご覧いただけます。当社では次の画家の作品をお薦めいたします。

受胎告知(1500~1510年)
ブダペスト、国立美術館

後期ゴシック祭壇画を描いたM.S.のモノグラムの画家。
M. S. mester(16世紀)

リッピヒ・イロナの肖像画 (1894年)
ブダペスト、国立美術館

ブダペストオペラ座の天井壁画を創作したロッツ・カーロイ
Lotz Károly (1833-1904)

エゲル城の女性達 (1867年)
ブダペスト、国立美術館

マーチャーシュ教会のステンドガラスを造ったセーケイ・ベルタラン
Székely Bertalan (1835-1910)

森の道(1876年)
ブダペスト、国立美術館

美しい林や森を描いたバルビゾン派の画家、パール・ラースロー
Paál László (1846-1879)

10月(1903年)
ブダペスト、国立美術館

ハンガリー印象派の父と呼ばれているフェレンツィ・カーロイ。
Ferenczy Károly (1862-1917)

公園(1928年)
ブダペスト、国立美術館

アール・ヌヴォーとポスト印象派の巨匠、ヴァサリ・ヤーノシュ
Vaszary János (1867-1939)

憧れ(1925年)
ブダペスト、国立美術館

ハンガリー表現主義絵画の代表的な画家、カーダール・ベーラ
Kádár Béla (1877-1956)

魅惑(1906~07年)
ブダペスト、国立美術館

ルネサンスの夢の世界を生き返らせたグラーチ・ラヨシュ
Gulácsy Lajos (1882-1932)

回転木馬(1931年)
ブダペスト、国立美術館

ピカソによって「野蛮の天才」と呼ばれたアバ・ノヴァーク・ヴィルモシュ
Aba Novák Vilmos (1894-1941)

オリオン・ノアル(1963年)
ペーチ、ヴァザルリ美術館

オプ・アルト絵画の父と呼ばれているヴィクトル・ヴァザルリ
Victor Vasarely (1906-1997)

センテンドレの町並みと十字架(1931年)
センテンドレ、フェレンツィ美術館

ハンガリーアバンギャルドの代表的な画家、ヴァイダ・ラヨシュ
Vajda Lajos (1908-1941)

錫の十字架 (1964年)
ブダペスト、国立美術館

シュルレアリスムのイコン画家、コンドル・ベーラ
Kondor Béla (1931-1972)